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森桂園 (もり けいえん)(1855 安政2年〜1929 昭和4年11月15日)

伊藤信著『濃飛文教史』1937博文堂書店刊および
『加納町史 下巻』1980大衆書房刊より

稲葉郡加納の人。本姓松波氏。のち森家に養はれ雨後庵を継ぐ(蕉風美濃派道統28世)。 名は永春、字は子尹、桂園はその号、通称孫一郎。安政二年(1855)加納宿本陣松波藤右衛門の次子に生れ、のち加納宿脇本陣森孫作に養はる。
幼にして学才秀で、三宅樅臺の門に入り研鑽浅からず、夙に東京高等師範学校に入るの時、已に漢文の学習を優免せられたといふ。
更に三島中洲、増田岳陽に師事して、漢文学の造詣彌々深く、業了へて育英の事に従ひ、第三高等学校教授、広島、名古屋、鹿児島等の師範学校長となり、
累進、学習院教授、東宮職勤務を命ぜられ、従五位に叙せられた。
のち清国陝西省総督の聘に応じ、同地高等師範学校に総教習となり三品の位を得、長安の故都に教鞭を執ること数年、
その間、各士巨匠と交遊し、唐宋の遺蹟を探究し大いに得る処ありしが、父の喪に丁(あた)り故山に隠棲、紅梅園の門に入りて俳諧を学んだ。
森、已に和漢の学に精通して、殊に漢詩及び書画を能くし、文名一時に高く遠近「桂園」の名を慕ひ、教へを請ふもの門に満ちた。
大正七年四月、獅子門道統廿八世を継承し、俳壇の為に大いに尽す処あり、八年三月文臺開筵(一人前の宗匠となる)、同八月越前に遊びて、斯道の鼓吹に勉めた。
十口随杖(不詳)また俳諧研究会を創立して、毎月加納に於て開催し、更に雑誌『獅子吼』を主宰して、斯界に清新の調べを推称指導した。

大正九年五月、防長両肥に遊び、斯道の啓発に力を尽した。随杖山田三秋なり。
同十一年夏、三秋、翠濤を随へて越前に再遊し、翌十二年三月、雲居、夜城、迂言、其馨四師の追善会を、加納欣浄寺に営み、来会者百五拾余名、頗る盛会を極めた。

之より先、教職を去りて家居するや、薀蓄を傾けて中小学校教科書を執筆し、又佐々醒雪等と、東都有数の諸雑廁の編纂を匿名主宰し、汎く青年学生の誌上指導に活躍すること年あり、此の間著書頗る多く就中『聖徳録』の如きは出色の書である。
漸く閑を得ては、筆硯を改めて青丹の道に研精、幾くならずして上達、南画家桂園の名を恣にした。その得意とする詩書と共に、世の懇請絶えずして、 紙債常に山積するに及んだ。

晩年悠々自適、専ら俳諧を嗜み、書と共に妙境に至り、名吟佳句口に従って出で、時に彩管を執れば、立どころに雅趣風を起し、楽音幽境に響くの感あらしめた。
昭和四年、各務支考先師の二百年忌を北野大智寺にて執行し、その秋十月、如常庵先師の追善を大垣等覚坊にて営んだ。
昭和四年(1929)11月15日、病の為歿した。寿七十五。法名千寿富岳院永春居士と曰ふ。加納墓地に葬った。(家記、岐陽雅人伝、獅子吼)

粥分けて義山や冬籠
初松魚韓信剣を売らんとす
行秋の風瀬に入りて石白し
曙の東寺やおほろ雲雀なく
牡丹散りて酒家に白也のいびきかな
笹粽和子は九郎と申しけり
傘はたく音塀にあり夜の雪
松風も小耳にひとり昼寝かな (加納欣浄寺句碑)

西湖
徐立円崖臨碧湖。天風陣々払銀鬚。這般高興那辺在。除却呉頭楚尾無。
円崖に徐ろに立ちて碧湖に臨む。天風陣々銀鬚を払ふ。這般の高興、那辺に在る。呉頭楚尾(江西地方)を除却しては無し。

題画
品精積作万尋山。魏々涵来碧玉湾。憶起雲横秦嶺夕。瘦驢載酒過藍間。
品精積み作す万尋の山。魏々涵し来る碧玉の湾。憶ひ起す雲横はる秦嶺の夕。瘦驢酒を載せて藍間を過ぐ。


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