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森春濤(1819文政2年4月2日 〜 1889 明治22年11月21日)

名は魯直。字は希黄。 塋域 愛知エースネット


『高山竹枝』
(たかやま ちくし)
森 春濤(桑三先生:名古屋桑名町三丁目「桑三軒吟社」の先生 )著

名古屋 : 奎文閣,[慶應2(1866)]跋[刊] 13丁 ; 13.5×8.8cm 袋(右)

高山竹枝    袋

p1
媚山明水

p2

妝成晩出八家坊
初八良宵初月光
鍛冶橋邊伴郎去
國分寺裏賽醫王
牙梳月樣製來新
雲鬢當中出半輪
清光剛道東山好
何似月梳巧照人
錄柳灣先生詩以代題辭
石埭永坂對

妝ひ成りて晩に出づ、八家坊(八軒町)
初八の良宵、初月光(かが)やく (陰暦八月初めの三日月)
鍛冶橋邊、郎を伴ひて去り
国分寺の裏、医王に賽す (※飛騨国分寺の山号は医王山)
牙梳(象牙の櫛)月様、製し來りて新たに
雲鬢の当中(まんなか)、半輪出づ
清光、剛道(石畳)、(飛騨)東山好し
何ぞ似ん、月梳(三日月)の巧みに人を照すに
柳灣先生の詩を錄して以て題辭に代ふ。
石埭永坂 對

p3

p4

p5

p6

p7

p8

p9

p10

p11

p12

p13


東山梳月故妍々
吟上旗亭春酒筵
斎々被他名妓咲
王之漁王壓能篇
陳々四十六篇詩
曾被人称新竹枝

自咲老髯森似戟
少年曩舊譜春詞

慶龍在
柔兆(丙)摂提格(寅):慶応2年
中秋後二日
桑羽魯直自識

p14

鼇頭評 :藤井竹外、遠山雲如、鷲津毅堂のほか、島木公は家里松オ(島=オ、木公=松)、精所は春濤の弟の渡辺精所の由、日野俊彦先生より御教示を賜りました。 ありがたうございました。(2012.9.24)
けだし家里松オを判じ物めいて記したのは、彼が文久3年に暗殺されたための韜晦配慮か。


【参考資料 1】

森春濤と「高山竹枝」 寂々亭随筆 福田夕咲 (「濃飛新聞」昭和22年ころ) 『福田夕咲全集』357p-359p

文久二年四月十二日、尾州一の宮の詩人森春濤はとぼとぼと吟丈を曳きながら早朝上有知(こうづち)を発足して飛騨紀行の旅に上った。
此行、もとより公務でもなければ職業のためでもない。漫然と飛騨の山姿水態を眺めようという風雅の旅である。然し覇旅というものは、環境の煩鎖な交渉を一時断絶してしまうという気楽さ、暢気さ、自由があって愉快ではあるが、一めん住み慣れた家郷を後にし、近親知己朋友にも別離を告げ、馴染のない土地へ出かけるのであるから、言い知れぬ離愁の哀感をおこさしむるものである。
季節風がそよそよと吹いて、行く手の空は遠く、山々が立ち重なっている。

春濤は梁川星厳門下の秀才で、年齢正に四十四という男盛り、詩壇に響いた名家である。勿論、彼自ら己れを持することも高く、頗る明朗な性格の男ではあったが、同時に多情多感な風流才子のことであるから旅愁を感ずることも、ひとしお深かったに相違ない。
神渕を過ぎ、桐洞を過ぎ漸く八里の道をゆき尽して金山の宿に辿りついた時には日はとっぷりと暮れ果てていた。斯くして鶴屋という旅館に疲れたわらじをぬいで漸く旅の一夜を送ることになったが、夜中にふっと眼をさますと、屋根を叩く雨の音の激しいのに、一愁いよいよ濃やかで、やすらかに夢も結べなかった。

明くれば十三日、夜来の雨いよいよ降り募って、容易にやみそうもない。いっそ今一夜とう留しようかとも思ったが、 もしこのまま降りつづいて長逗留になってはという懸念もあり、濡れる覚悟でゆるゆる雨支度をして雨の道中へ発足した。馬瀬川の渡しを越て、いよいよ名代の名所中山七里へさしかかる。
山高くして木立ふかく、岩希にして水清ムかに、中山七里は耶馬渓にも劣らぬ絶景ではあるけれどざんざ、ざんざの雨降り道中ではゆっくり眺めるわけにもゆかず「絶景かな、絶景かな」と南禅寺楼門の五右衛門もどきに気どってもいられない。

兎角して中山七里も、もう三、四里の程は越えしと思う頃、カタツムリのようにのろのろと先をゆくものがある。よくよく見れば、出発前四日、関から仕立てたぼっかで、もうとっくに高山へ着いたころと思っていたのに、まだこの山中にぶらぶらしているのに驚いた。
「どうして、そんなに愚図々々しているんだ」
と突き声出してなじると、ぼっか曰く、
「一日に三里づつしか歩けぬので、まだ五日たたねば高山へゆきつけぬ」
「なんとかして今少し早くゆかれぬか」
「外の荷をおろして、旦那の荷ばかりにすれば、十六貫二百匁きりになります故十五日迄にはつけますが、それにはお駄ちんを増して貰わなければなりませぬ」
といったわけで、だちんを三朱増、塚田のゑび屋と云う家に外の荷を預けさせ、十五日高山着と相談一決。

この日七つ頃より漸く雨雲も晴れ雨もやんで、下呂の山形屋に投宿、雨に濡れた旅衣を乾かした。今日の旅路で困ったことは、ミッ淵村というところで一ぷく少憩の時、つい煙管を置き忘れて来たので、半日あまり煙草飢饉というありさま、やっと下呂の宿で煙管を買ったが、その価百四十五文、むたいなへらへら煙管なり。

十四日、晴天ではあったが、晩霜の激しい朝で、出立の時、指先がかじけて草鞋の紐も結ばれなかった。途次、中呂の禅昌寺にお参りする。奥田村、花池村、萩原宿と云う通りすがりの村の名がなんとなく故郷を想い出させて気がしずむ。朝六つ橋という小坂宿の橋の名は、夜中何時通っても朝六つという感じ故名づけられたのだそうな。その橋のすこし手前で、一の宮へも折々来る富山の綿商人小森正蔵という男と行き逢うたので、とある道ばたの縁先を借りて腰かけばなしに、一宮へことづて頼む。

この辺は、恰ど梨の花盛り、紅梅も、桃の花も桜も咲き揃っているが、今朝の大霜に遇うてしわっとしたふりである。 つつじはまだくび出したばかり。
この夜、暮れ六つ過ぎ木賊村の吉右衛門という家に厄介になった。宿屋というわけでなく、ゆき暮れて難渋しているものを泊めるというところで、 家は大きいが、汚ないことこの上もなく、二十畳敷きばかりの板の間にむしろを敷き、寝床がこしらえてある。そして一年中ふとんは敷きっぱなしで、仕舞ったことはないという。高山へはもう三里と知らされて、旅の心も漸くくつろぐ。

十五日、この朝も相当霜が深かった。寒さも昨日と同じこと、宿の汚いのが胸につかえて食欲も起らない。やっとのことで一ぱいの飯をさらえこんで、早々出発、道の一里あまりもゆくほどに、腹はへるし、寒さが身にこたえる。宮峠の茶店で、ちょっと一合かんをして貰うてやっと人心地がついたというような具合で、誠にみじめな道中であった。そして、ものの十丁余りもゆかない中に同じ故郷の福助という見世物一行と道づれになった。

今日は一の宮の祈年祭だということで、水無神社も賑わっている。福助一座は大当り、好評を博しているらしい。
高山へもう半里、石浦というところの茶店に休んでいると、相当立派な町人らしい二人連れの男がやって来て同じ茶店に休んだが、春濤のみなれぬ風態を見て、
「あなたは画家ですか」と言葉をかけたので、
「よぼよぼ詩人ですよ。尾州一の宮の森春濤と云うものです」
と名乗る。
それと聞いて二人はちょっと驚いたような顔つきだったが、その一人が扇を開いて、ねんごろにさしだしたのを見ると、遠山雲如の詩が記してあった。
「今日は一の宮の祈年祭でお詣りに参ります。いずれ高山で御目にかかります」
と言ったきり、名を名乗らないで行ってしまった。茶店の者に尋ねると、森七左衛門という大町人の主人兄弟であるそうな。
ぼつぼつゆくほどに、医者らしい風体の人と道づれになり、名を問われるままに森春濤と答えると、かねて私の名を知っていたらしく、いんぎんに、
「高山のことはさぞ不案内で御座いましょうから・・・・・・」
と言って、旅宿谷屋市兵衛まで送って来てくれた。

取りあえず谷屋へ酒肴を誂えて酌み交わして好意を謝した。此人は高山近在松の木村の都竹太一郎というお医者さんであった。
十六日、朝のうちは好い天気であった。金井修斉というお医者さんを訪ねると、
「京都から先触れが来ています」
というわけで頗る機嫌が好い。暫く主人と話し合っている中に、高山三町代の一人、屋貝文次右衛門という男がきて非常に歓待してく
れた上、即座に昼過ぎには
「山行きを催しましょう」
といって諸方へ廻文を出した。

この山行きに同座した人々は何れも高山の豪族大町人で、川上斉右衛門、同嫡岡太郎、屋貝準三郎、同維平、森文助、 森七左衛門、滑川長五郎、同加蔵、上木嘉蔵、屋貝文次右衛門等であった。屋貝邸にて一同連座の席上、酒の勢いに乗じて、
「御当地へ、拙国より福助が参りまして、大変皆さまの御ひいきに預ったそうでございますが、拙者も福助同様、厚く御ひいきの程御願い申上げます」
と初対面の挨拶をやってのけたので一同哄笑、一同大いにくつろいでいよいよ山行の段取りとなる。

城山という古城跡にゆく。春は万人行楽の場所で、桜は既に色あせて葉桜の季節であったが、梨、桃、あんず、紅梅、つつじ、山吹、藤、何れも花盛りで風土の然らしむる所ではあらうが、頗る妙な感じがする。大隆寺という寺を訪ねたが、ここも他所と同様、山行き客で満員、やっと一と間あけて貰って酒肴を開く。山中に似合わぬみごとな御馳走で、殊に北海のますは大魚にて美味である。席上分散して詩作にふけった。高山の諸子皆感心によく出来る、この寺で今年はじめてほととぎすを聞く。

以上に記したことは決して私の想像から出たのではない。春濤が自ら記して家郷に送った書信に依った厳然たる事実である。暫くして春濤は四月十五日到着して以来約三十日、六月末に帰郷した。その間には旅宿谷市の娘に見染られて、養子縁組を申込まれたという艶っぽい逸話もある。
此旅中、有名な「高山竹枝四十六篇」の作がなったのである。その数篇を抄録(省略)して、この随筆の結末とする。以前越後の儒者館柳湾が高山に遊んで「高山竹枝篇」を残したのに刺激されたのであろう。
(「濃飛新聞」昭和22年ころ)全集357p-359p


【参考資料 2】

高山竹枝 (昭和13年7月「飛毎特輯」第7号) 『福田夕咲全集』463p-465p

館柳湾は越後の儒者で、飯塚伊兵衛の後をうけて、飛騨郡代に補せられた小出照方に認められて、文編の職に就いたのは寛政十二年、閏四月の事であった。
柳湾はもとより実務上の才にも長じてゐたが、儒者と言ふよりも、寧ろ詩人肌の男で、堅苦しい道学者流に似合はず、随分酒を愛し風流韻事にも精通し、折花攀柳の道にも疎くはなかったやうである。彼は、高山の儒者赤田臥牛、国学者田中大秀と親交があった。

柳湾は、その日、いつものやうにお役所から帰ると、さっと一風呂浴びて、晩酌の膳に向った。膳の上には、松塘のすゞきにも比ぶべき、清らかな宮川の流れに育った、香魚の塩焼と彼の好みの肌の斑紋の美くしいはえの飴だきと、あっさりした胡瓜の白酢あえとが、充分に彼の味覚を満足せしめるやうに調理されてあった。
彼は白地の浴衣の胸をくつろがせ春慶の木具膳を前にしてちびりちびりと地酒『玉の井』を啜った。「飛騨の地酒は灘、伊丹のそれに比して、芳醇さに於てこそ劣ってゐるが、淡烈なる点に於て寧ろ彼に優ってゐる」と彼は人にも語ってゐた。最も、初めの中にはぴんと舌にひびくその味を好ましいものとは思はなかった、矢張り灘、伊丹のしっとりと舌にしみ入ってくる酒味の方に、大きい好意を持っていたが、淹溜久しきに亘るにつれて、深く深く飛騨の地酒のよさが解って来た。彼は二つなきものとして銘酒『玉の井』を愛飲した。

「酒は女のやうなものだ。別に愛の恋のといふ事を感じないでも、自然の道に基づいて人間の理法と習俗に従って、み知らぬ女と結婚しても久しい間に、その女のよさが解ってくる、次に二つなくいとしいものとなってくる。朋友もその通りだ、長くつき合ってゐる中にその人のすぐれた点が解って、友情いよいよ濃やかになってくるのがほんとうである。人づきのよい、初めから馴れなれしくして来る男だって、つき合ってゐる中に、卑しい点や醜い事が解って、自然に交際を避けるやうになる奴もおる」
などと、とりとめもない事を考へながら頻りに『玉の井』の淡烈さを味はってゐた。そして高山へ来てこの方、知り合ひになった人々の上を思ひめぐらしてゐた。
権勢におもねる男や金に眼のない男などが、彼の眼の前に、影絵のやうに髣髴として現はれた。彼はチェッと舌打して、慌てて盃をぐっとあほった。
「やっぱり彼等はいい男だ」彼は斯うつぶやいて、日頃仲よくしてゐる臥牛や大秀をなつかしく思った。
「臥牛は稍堅くるしいが、質実ないい男だ。たよりになる男だ、世に容れられないで、然も四方に漂浪しながら、敢然として道を説いてゐた孔子様のやうな信念と気骨をもった男だ。今の世に珍しい存在だ。大秀の博覧強記は実に素晴しい、文芸百般に通ずるとも言はうか、何でもよく知ってゐる。臥牛に比べると彼はぐっとくだけた人情通で、彼になら、色事でも何でも、安心してあけすけ相談する事が出来る」
彼は二人の友の身の上を、性格や人柄を、思ひやって、明るい気持になってゐた。
「暫らく彼等にも遇はない」と思ふと、別に用があるのではないが遇って世間話しでもして来やうと考へた。晩酌の盃を納めて、軽く香の物で、わざと冷ました御飯をお茶漬にして、さらさらとたべ終ると、膳を退けさせた。
ちょいと無紋絽の羽織をひっかけただけで、心易い仲の事だから、足袋も穿かずに、素足で雪駄ばき、
「ちょっと大秀を訪ねて来る」と言い捨てて、玄関の潜り戸をあけて、外へ出た。

蘭陵美酒鬱金香 玉碗盛来琥珀光………(らんりょうのびしゅうこんこう ぎょくわんもりきたるこはくのひかり)」
屈託のない、ほがらかな気持で、彼は唐詩を低声で唱ひながら、ぶらぶらと漫歩の足を運んだ。
半輪の月が、稍西よりの空にかかって、涼風が彼の微薫の頬を流れた折柄、八軒町の方から、からからと涼しい日和下駄の音をたてて稍急ぎ足に、 うら若い女が、彼の後から通りかかった。ふと立留って、ふり返った彼の前を、そのうら若い女は、挨拶をするのでもなく、せぬでもなく、軽く頭を下げたまま、横ぎって向町の方へ行った。

ほんのり白く化粧もしてゐるらしかった結立の髪が気になるらしく、歩きながらも、髪をいぢって歩く後姿が眺められた。
若い女性のみが持つ特殊な体臭が髪油の匂い、白粉の香りと交ってなまめかしく夜の静かな空気に漂ってくるのをぼんやり感じながら、彼は別に急ぐ程の用でもなく、また大秀を訪ねるのに、別に廻り路になどと云ふ程でもないので、彼は、前と同じゆるやかな歩調で、女の後を漫然と歩いて行った。
その夜は国分寺のお薬師様の縁日で向町の辺りもいつになく人通りがあった。女は人眼を避けるやうにわざと陰を選んで、軒添ひに歩んでゆくらしかったが、上向町を下がって、鍛冶橋近くになると、彼女の歩みはだんだん早くなった。

ものの半刻も前から、鍛冶橋の欄干にもたれて、ぢっと川の流れを眺めてゐる男があった。然し時折り、夜を見透かすやうに、橋の西の詰の方を眺めては、また静かに欄干によりかかったり、所在なさに、欄干を背に、しゃがんで大きい溜息をついたりしてゐるのは、決して、ただの涼み客ではない。
彼は人を待ち合してゐるのである。云ふまでもなく深く言ひ交した女と媾曳の刻をしめし合せてぢっと、半刻も前から、その女を待ち焦れてゐるのである。

女は鍛冶橋の詰めまで来ると、急に立留まって、そしてあたりを見廻した。待ち侘びてゐた男は、それとみて、周囲をはゞかる様に小声で、呼びかけた。
「おい、随分遅かったなあ」恨みがましい口調である。
「あんた!随分待ったでしゃう」もう「約束の時間から大分遅れたので、幾度思ひ切って帰らうかと思ったか知れなかった、橋を渡る人達も、とがめるやうにちろちろ眺めて通るし、まったくなさけないやうな気がしてゐたんだ」
「勘忍しておくれんさいな。ちょっと家を出にくかったんですもの、伯母さんが来たりなんかして・・・・・・」
「今夜は、もう遇へないのかしらんと思ってゐたところなんだ、何か急な差支えでも出来て出られないんぢゃないか知らん、急病でも起きたんぢゃないか知らんと、随分気を揉んでゐたんだ。でもよく出られたなあ」
「妾(わたし)も、気が気でなかったんですの、けれど、伯母さんが、いやにゆっくり構えて、帰りさうにもないんでしゃう、仕方がないから、思ひ切って”お薬師さまへお参りに行って来ます』と言ったの、さうすると
「早く帰っておいで、若い娘が、夜遊びなんかしちゃいけない」とすぐに叱言、でも
「ええ、すぐ帰って参ります」と素直にお返事して、急ぎ出て来たんですわ」二人は、ひそひそ小声で、うれしさうに寄り添ったまま、暫く語り合ってゐた。

「でも、ちょっと参って来ましゃうよ」
「たまに遇ふのに、ゆっくり話も出来ないのは、情けないなあ」
「だって、今に、誰かに口をきいて貰って、祝言でもすましゃ、天下晴れての夫婦ですもの、妾し、お薬師様に願がけしてゐるのよ、早く添へますやうにって・・・・・・」
「では、俺もよく、お薬師さまへお願ひすることにしやう」、二人は殆んど肩と肩と、密着せんばかりに、所謂比翼の鳥と云った姿で、国分寺通りの闇の中へ消へて行つた。

柳湾は、河風に親しむやうな風を装うて、二人の情緒纏緬たる様子をみてゐた。
「詩だ、美しい情詩だ!」彼は思はずつぶやいた。
柳湾が、大秀を訪ねた時、大秀も晩酌後のほろ酔ひ機嫌で、べたりと腹這ひに寝ころびながら、書を繙いてゐた。
「よくお訪ね下さいました」家人の知らせで、大秀は、この不事の訪客を迎えに立った。
「突然、おくつろぎの所を脅かして相すみません、前以て使ひも出さず心安だてに・・・・・・まあ御許し願ひます」
「いや、私も無聊を感じてゐたところです」
茶と御菓子が出て、二人は暫くの間、打ちとけて世間話しをしてゐたが、柳湾は、今見て来た若い男女の情事を物語った後、
「紙と筆とを御借りいたしたい」と申出た、
「さあ、どうぞ、御自由に、筆は使い古しで恐縮ですが・・・・・・」と大秀は墨を磨って渡した。
「否、結構です、ちょっと思ひ浮んだものですから……」、柳湾は、筆の先を噛みながら、しばらく句を纏めてゐるやうであったが軈て、
「高山竹枝」と前書きして、「装成晚出八家坊、初八良脊月光」と起承の二句を認めた。
そしてまたぢっと、眼を閉ちて、句を練った。大秀もにこやかに、紙上の文字を眺めてゐた。
暫くして柳湾は、再び、筆に墨を含ませて

「鍛冶橋辺伴朗去、国分寺裏賽医王(鍛冶橋辺、朗を伴ひて去り、国分寺裏、医王に賽す)」と認め、静かに口の中で読み返した。
「如何です、今夜の即興ですが」大秀は座を立って、その詩の前に座った。唐紙は、墨をたっぷり含んで、幾分にぢみ勝ちであった。二、三度、繰返して、口吟しながら、大秀は言った。
「すらすらして、こだわりのない、良い作ですなあ、白楽天の詩のやうに淡々たる中に、情趣の濃やかさがあって、誠に敬服いたしました。」二人は、愉快さうに声を和して笑った。
「ハ・・・」
「ハ・・・」
この一篇は、私の創意であって、史実に拠ったものではありません。多少、史実に背くやうな事があっても、御看過願ひます。(夕咲)


館柳湾の「高山竹枝」

妝成晩出八家坊  妝ひ成りて晩に出づ、八家坊(八軒町)
初八良宵初月光  初八の良宵、初月光(かが)やく (陰暦八月初めの三日月)
鍛冶橋辺伴郎去  鍛冶橋辺、郎を伴ひて去り
国分寺裏賽医王  国分寺の裏、医王に賽す。 飛騨国分寺の山号は医王山

牙梳月様製来新  牙梳(象牙の櫛)月様、製来新たに
雲鬢当中出半輪  雲鬢の当中(まんなか)、半輪出づ
清光剛道東山好  清光、剛道(石畳)、(飛騨)東山好し
何似月梳巧照人  何ぞ似ん、月梳(三日月)の巧みに人を照すに


『日本竹枝詞集』中巻 伊藤信編[岐阜華陽堂書店刊行]所載

日本竹枝詞集   日本竹枝詞集






註解 「森 春濤「高山竹枝」注解〔一〕〔二〕」山本和義・山中仁美著 「アカデミア. 文学・語学編」  (南山大学ISSN:03898431)
61号, 243-282p ,1996,9  /  62号, 317-366p ,1997,3

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