『歌集』から5年の歳月を経て、杉原一司
(すぎはら かずし:大正15年 - 昭和25年)の全集が刊行されました。
『杉原一司全集』岡村知子・杉田佳凛・田中仁 編 2025.2 今井出版 ソフトカバー 234p
全集刊行に至るこれまでに、鳥取大学の紀
要にて準備稿が3度も上げられてをり、また編者のひとりである岡村知子先生による懇切な解説がすでに『歌集』に収められてゐるこ
とから、此度の全集の陣容はまことに簡潔なものとなってゐます。近刊『藤田文江全集』の、思ひ入れをふんだんに
盛った編集とは対照的ですが、各作品に就いて未刊ノートとの異同を詳細に記録してゐるのは、徹底的な校訂が行はれた『左川ちか全集』を彷彿させます。戦後現代
詩の始まりを告げるモダニズム系マイナーポエットの集成が続き、夭折詩人達の可能性を再評価する動きからしばらく目が離せませ
ん。
ただこの『全集』、解題や編集の覚え書き
はもとより年譜がなく、伝記的事項やわずか23歳で亡くなった理由も分かりません。『歌集』にあった写真資料も割愛されてゐて、
詩人の実像に迫るべく+αを期待したファンのみならず、この一冊を集成本と思って手に取る読者には不親切な内容です。
そこでですが、文学者の全集には「栞」なる別添の刷物が付されてゐることを御存知の方も多いと思ひます。さきの鳥取大学紀要に
は準備稿に続いて「杉原一司全集のために
―記憶をめぐる対話―」が載せられてゐるのですが、これを「栞」に代るものとして本書を手にするひとに読んでもらったらどうでしょう。ネット上に公開され
てゐるのでここに紹介します。
「杉原一司全集のために ―記憶をめぐる対話―」『地域学論集』(鳥取大学地域学部紀要)20(3),2024
杉原一司の遺族二人による「対談」を収め
たものですが、遺族である彼らも23で夭折した父や叔父について直接の記憶は無く、全て一司の未亡人令子氏を通じて知り得た情報
です。しかしながら事前に質問事項を挙げて臨んだこの対談、インタビュアーによる呼び水も必要ない程に、気心の置けない同郷同年
の従弟同士がそれぞれの思ひ出を確認しつつ語り合ふことで、身内ならではの解釈に落とし込んだ、分かりやすい詩人像が披露されて
ゐます。「異常な時代に青春の形成期を過ごす(118p)」宿命に対峙し、その結果、生得のロマンチシズムをこじらせてしまった
理論肌の文学青年の面影を、親しみが感じられる方言で遠慮なく素描することに成功してゐると思ひます。
「実のお母さんが生きとるのに、別
のお母さんがおるわけだ。」
「やっぱり何かの世界で有名になって、俗に言えば見返したいというような部分があったのではないかと思うんだが。」
(商業学校にしか進学できない田舎では)「無頼派と成功派があって、無頼派は一司とか。」
「母の感じでは、(母は)塚本邦雄さんをあまりよくは思っていなかった。」「まあ、一司があまりにも塚本さんにのめりこ
んで、週に一回以上かな、二回ぐらい手紙のやりとりをしていたので。」「夫をとられたというか。」
「杉原一司がそれだけ家庭のことを全く考えない人だったのだと思う。」
「放り出してな。だってあんたが生まれてすぐなのに天理語学専門学校に行っちゃっとるわけだろう。そんなのは考えられん
でな。」
「一司さんは、二回、資料を焼いておんさるだな。商業の資料を焼き、戦争のを焼き。だから性格的に見ると、結構きちんと
した人なんだな。前をひきずらずに清算して、次に行く。」
「だから杉原一司の思いは、塚本邦雄が有名になったために、一応、達成できてるんよ。」
「ある方法論を使ってできた歌がたまたま評価されたらありがたいし、そうでなければしょうがないなというのが最後の辺だ
と思う。」
「逃げ道がなかったろうな、一司さんは。(学生運動に身を投じた)僕らは結局、日和ってしまって、普通の日常性に戻って
しまって。」
「一司の場合にはそうではなくて本当で、抑圧された自分を解放するというか。
自己確立するための不条理に対する抵抗だった。」
「それが文学、歌を作るということ。」
「たまたま評論が得意だったのと、たまたま短歌をやっていて。単独だったらできないが、塚本さんと力を合わせたら新しい
方向ができると考えた。」
「杉原一司全集のために
―記憶をめぐる対話―」『地域学論集』20(3),2024 より。
会話には身贔屓が感じられず、むしろ母や叔母に心配や苦労を掛けるだけ掛けたまま夭折してしまひ、のちに
前衛短歌の雄となった塚本邦雄の「盟友」として論はれることになった故人の業績については、父と同じく理屈っぽさを受け継いだと
自任される御長男の考察に注目しました。その後団塊世代である自分達が送った青春時代に対する反省を踏まへて、父との違ひを、畑
を異にする理系人間の立場から客観的に意見してゐる後半、さばけてゐて読み応へがあります。
未亡人の令子氏が、清新な抒情を詠むすぐれた歌人であったと同時に、日本女性らしい生き方を堅持され、家庭を守りながら亡夫の
遺志をひきとって塚本邦雄の盛名にあやかることなく、前川佐美雄に親近して作歌に精進してゐたのを知ったことも嬉しい発見でし
た。
『杉原一司歌集』より 令子夫人と
作品については前のブログで少しばかり紹介しましたし、私
自身、短歌鑑賞に口をはさめる人間ではありませんので控へますが、散文に現れる屈折した批評やデスパレートな問題意識、短歌に限
らず何をどう表現すべきか、文芸全般に対する方法論を問ひ続けた姿勢については今一度、付記しておきたいと思ひます。
すなはち思春期の自分達を律してゐた戦時体制の崩壊のあとで、単純にそれを否定するだけでは済まず自虐的にならざるを得ない
「拉がれた世代の不信の魂132p」がよりどころとする批評とは、なるほど彼が心酔する坂口安吾に影響された非センチメンタルな
ものだったのかもしれませんが、どこかで読んだやうな反俗的なこの感触は、私の狭い読書遍歴の中では、やはり初期の保田與重郎の
難解なイロニーが髣髴されるのです。(もっとも杉原は貴族趣味やダンディズムなど世を捨てた「反俗精神」を、エロ・グロに堕ちた
世俗の暴露趣味と同じく排すべきセンチメンタリズムとして認めてゐませんでしたが。)
彼が歌人として前川佐美雄に就いてその後も離れることがなかったのは、戦時中に杉原家が前川一家の疎開先
となったことが原因と思はれますが、戦後、鳥取を後にして文学で身を立てるにも、東京ではなく戦災に遭はなかった奈良を選び、中
央の新日本文学陣営に与することがなかったのは、存外そんな師縁や地理上の制約があったからだとも考へられます。自分ら若者を欺
いた戦時体制の文学はもとより、桑原武夫や小野十三郎らによる抒情精神を全否定するムーブメントにも与しなかった杉原一司です
が、彼と同様に敗戦を契機に烈しく正義心に燃えた歌人として、私にはひと世代上の杉浦明平が想起されます。親友立原道造を保田與
重郎に奪はれたと観じてゐた杉浦が『暗い夜の記念に』の中で呪詛したやうには、杉原に日本浪曼派に対するあからさまな批判を見出
すことが出来ません。戦時中すでに鬱々たる怨嗟に燃えてゐた10年先輩のリベラルエリート学士杉浦と、戦犯を追及する気運が薄
かった近畿圏に飛び出すのがやっとだった杉原と、環境面でのウラハラな事情を忖度するといへばスギるでしょうか。
駄洒落はともかく前川佐美雄との関係については『杉原一司宛前川佐美雄書簡』(2021鳥
取大学地域学部, 411 p)といふ浩瀚な書簡集が、やはり鳥取大学の先生方の手でまとめられてをり、未見です。
以前にも記しましたが、天理に住まった杉原一司が概括した戦後(文芸)世界の見取り図と期待とが、アメリカニズムと共産主義を
同時に否定した保田與重郎がたどりついた絶対平和論の観念的な祈念と近接してゐることを感じたので、師であった前川佐美雄を通し
てなにか影響があったのか知りたいところです。
いずれにせよ全集と謳はれた本書の眼目は、2/3の分量を占める散文、そして肉声を伝へる貴重な2本の対
談・座談会の聞き書きです。加之、作品も戦時中の短歌が18首も新たに発見追加され冒頭に収められてをり、感傷を排して飛翔しよ
うとする最晩年の身振りよりも、初期の抒情的な作風が慕はしい私には嬉しい新修でした。杉原一司を代表するものではありませんが
最後に抄出して置きましょう。
あの山もこの山もみな翳をもち思ひ
深深息づきて見ゆ
とどまらぬ雲の行方を追ひにつつ夏日かがやく野にやけてゐつ
日の暮れと念ふ嘆きの切にしてかがよひ崩ゆる雲かぎりなし
すかし見る葉脈白く針をなしわが額にせまる心あやふき
冷え冷えと冴えかへる珠を掌にのせていこはむわが生命なれ
けがれなき眠りにあはく眠りてはふるへてやまぬつゆくさの青
歌誌『やまと』(昭和19年度 第一巻)より
前川佐美雄主宰歌誌『オレンヂ』
【追記】
また編者の岡村知子先生には、さきだって『杉原一司歌集』の解説も収めた文芸評論集『文学と地域』を刊行してをられます。
『文学と地域』2024.1
大阪公立大学出版会 ハードカバー339p
副題は「自他が尊重される<場>を問う」。序章には、
「本書の表題に用いた「地域」とい
う言葉は、個々人の生が最大限に尊重される世界を希求する主体によって、それとの落差を明晰に意識しつつ描き出された、
言語的構築物としての時空間を意味している。」
序章 5p
とあります。「個々人の生が最大限に尊重される世界」とは作家にとっての理想の「故郷」を意味しましょう
か。本書は言語的構築物としての「故郷」との落差・ズレを、それぞれ作家ごとに論じてゐるもののやうですが、それは作家のみなら
ず批評する側にとっても主体的な問題である筈です。
<コラム3>の中で「(故郷に根差した)作品研究と地域振興との接続の困難と、その克服」が、地方大学の先生方には要請かつプ
レッシャーとして存在してゐると書かれてゐますが、自分自身が卑小な田舎者の一人として「捩じれた主体」たる自覚を以て批評的視
座を保ち続ける限り「文学を見失うことはない」のだといふ自戒は、郷土文学に臨む態度として、ドグマのもとでジンクスにとらはれ
て生きてゐる私もまたいつまでも心してゆきたいと思ひます。
『文学と
地域』2024.1 大阪公立大学出版会